岡本太郎記念館

TARO再見(時事通信配信記事転載)

平野暁臣(ひらの・あきおみ)
1959年生まれ。空間メディアプロデューサー/現代芸術研究所代表。ゼネラルプロデューサーとして『明日の神話』再生プロジェクトを統括。2005年より岡本太郎記念館館長。

第6回 :もうひとりの太郎

岡本太郎への注目は一向に衰える気配がない。関連書籍の出版が相次ぎ、「太郎本」コーナーを設ける大型書店も多い。さまざまな切り口の岡本太郎展が各地で開催され、新聞や雑誌に大きく取り上げられることも度々だ。
しかし、いまでは信じられないことだが、晩年の太郎は半ば忘れられた存在だった。絵を売らなかったために巡回展が途絶えた後は作品を見ることができず、著作もほぼすべてが絶版となり、メディアに登場することも無くなった。気がついてみたら、目の前から消えていたのだ。
その状況を大きく変えたのが太郎のパートナー、岡本敏子だった。50年来の秘書だった敏子は、生前の太郎を「三歩下がって」支え続けた。いつもそばにいて太郎の創作意欲を掻き立て、プライベートにかかわる一切を取り仕切った。
太郎の取材に同行して資料を調えたのも、彼の発する言葉を書き留めて著作に仕上げたのも、すべて彼女の仕事だ。敏子は岡本太郎という芸術家にとって最高の伴侶であると同時に、男女を超えた“戦友”だった。
だが裏方に徹していた敏子の人生は太郎の死で一変する。
「岡本太郎という奇跡を伝えたい」。彼女はそう言って、自宅を記念館として開放。絶版になっていた著書の復刻に奔走し、新しい本も次々に出版した。さらに全国を講演に飛び回り、メディアにも登場して太郎を語り続けた。すべては太郎を次代に伝えるためだった。
敏子が蒔いた種が今、芽を吹き始めている。まるで雪の玉を転がすようにどんどん大きく膨らんでいる。これは、無名だった芸術家が死んだ後に評価されたのとは違う。太郎は日本で最も有名な芸術家のひとりだった。今、起きているのは、亡くなって10年も経ってからその生き方や美意識に対する共感の輪が広がっているという現象だ。おそらくほとんど例のない出来事ではないか。奇跡を起したのは敏子という“もうひとりの太郎”だった。

「岡本敏子(未発表女性デッサン画)」(不明)

第5回 :反博の巨像

1970年、昭和を代表する空前絶後のイベント「大阪万博」が開かれた。社会的なインパクトはまさに戦後日本の “事件”というべきもので、「民族大移動」と言われた6400万人の来場者数はいまも万博史上の最高記録だ。宇宙船、月の石、コンピューター、ロボット、 レーザー光線………。日常とはかけ離れた驚くべきものが埋め尽くす光景に誰もが熱狂し、日本全体を万博熱が覆った。「技術の進歩が未来をバラ色にしてくれ る」と信じられた最後の時代。万博はまさに「夢の未来」そのものだった。
そのド真ん中に岡本太郎は『太陽の塔』を突き立てた。前代未聞にして意味不明。まるで太古の昔から立っていたような風情で会場を睥睨している。胎内には幻 想的なテーマ展示が収められていた。大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。だがテーマプロデューサーの太郎はこれを真っ向から否定する。「人類は進歩 なんかしていない。いまの人間にラスコーの壁画が描けるか。調和? 皆が互いの顔を立てて60点で満足する調和なんて卑しい」。いまもヌっと立ち続けるあ の塔は、テーマを否定するテーマ館だったのである。
それだけではない。『太陽の塔』は万国博覧会の歴史に残る唯一の異物でもある。万博は先進国の産業オリンピックとして生れ、発展してきた。制度を支える理 念は「国威発揚」「技術礼賛」「産業振興」の三つ。第1回のロンドン(1851年)から一昨年の愛知に至るまでまったく変わっていない。技術を誇示してプ レゼンスを競うのがミッションなのだ。
だが『太陽の塔』は違う。その異様なフォルムの内側には「生命の樹」が内蔵され、呪術的な地下空間には世界の仮面と神像が立ち並んだ。万博史上例のないコンセプトだ。
当時、反体制の芸術家や学生は「反博」を唱え、太郎に対しても「お上に尻尾を振るのか!」と批判の声が上がった。だが太郎はこういって笑ったらしい。
「反博? なに言ってんだい。一番の反博は『太陽の塔』だよ。」

「生命の樹」-太陽の塔内部-(1970)

第4回 :焼け跡からの出発

戦時色に染まる日本に戻った太郎は、二科展への特別出品、銀座三越での滞欧作品展を通じて日本美術界にデビューを果たした。だが好評を博した初個展の2ヶ 月後に招集、30歳の二等兵として中国戦線に送られる。1946年6月、後に“冷凍された4年半”と語る軍隊生活から青山に帰った太郎を待っていたのは一 面の焼け野原だった。
自宅と作品のすべてを失った太郎だが、翌47年には本格的な創作活動を開始。独自の美意識を鮮烈な構図と鮮やかな原色に投影した“太郎ワールド”を送り出 していく。だがそれは当時の常識を完全にはみ出していた。原色が「下司が好む下等の色」とされていた時代。太郎には「下手くそ」「色音痴」との批判が浴び せられた。
美術界も驚くほど旧態依然のままだった。相撲番付のような序列が支配する世界。画壇などというくだらないピラミッドは壊すべきだ。そう考えた太郎は「絵画 の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎からはじまる」と宣言。美術界の常識や画壇的な権威との対決姿勢を鮮明にする。
一方で『森の掟』『重工業』などの代表作を立て続けに発表し、彫刻、書、デザイン、写真など表現ジャンルを次々に拡げた。さらに「今日の芸術」「日本の伝 統」をはじめとする名著を続々とリリース、縄文の美を“発見”した「縄文土器論」や「沖縄文化論」など独自の文化論で社会を挑発した。メディアにも頻繁に 登場、美術界の風雲児となっていく。
同業者からは陰口が絶えず無視され続けたが、太郎はまったく気にしなかった。芸術は大衆のものとの信念があったからだ。絵を売らなかったのも、パブリックアートをたくさん手掛けたのもその考えからで、ついにはタダで配るおまけのグラス(『顔のグラス』)までつくる。
大衆とメディアに支持され、それまでの芸術家像を大きく超える存在になった太郎は、ついに最大のモニュメント『太陽の塔』に取り組むことになる。

「電撃」(1947)

第3回 :対極主義へ

“岡本太郎”をつくったのは1930年代のパリだった。18歳から10年あまり、二つの大戦の狭間にあって文化が激動するエキサイティングなパリで、太郎 は多感な青春期を過ごした。日本人絵描きが仲間同士で群れるのを尻目に、彼はひとり新しい芸術の渦に飛び込んでいく。極東の国から来た無名の青年は、最先 端の芸術に肌で触れるとともに、いつしかそのムーブメントのド真ん中に迎えられていた。
カンディンスキー、モンドリアンらによる抽象芸術運動「アブストラクシオン・クレアシオン」の最年少メンバーになる一方で、シュールレアレズムの旗手たち とも親交を深める。エルンスト、ジャコメッティ、アルプ、プルトン、カルダー、マン・レイ、ブラッサイ……。のちに20世紀美術の巨匠となる多くの芸術家 たちと出会い、対等に渡り合った。ジョルジュ・バタイユが組織する秘密結社「アセファル(無頭人)」にも参加。こんな日本人は太郎をおいてほかにはいな い。
やがて太郎は独自の芸術思想「対極主義」に辿り着く。既成のイデオロギーや様式に安住せず、あらゆる対極的な概念を矛盾のままにぶつける。前に進むために はその矛盾から生まれる絶望と緊張を拠り所にするしかないという芸術観だ。25歳で描いた代表作『傷ましき腕』にその発露が見える。切り裂かれた傷口から 生々しく溢れ出る現実感。だがそこに顔はない。ただリボンが結ばれているだけだ。具象と抽象が矛盾のままに対置され、観る者を独特の緊張へと導く。
新たな境地を見出した太郎はしかし、27歳のときに突然絵を描くのをやめてしまう。パリ大学でマルセル・モースに民族学を学ぶためだった。太郎は言う。 「芸術は全人間的に生きることだ。私はただ絵を描くだけの職人にはなりたくない。だから民族学をやったんだ」。太郎はこうして孤独の中で“岡本太郎”を創 り上げていった。
1940年、ナチスのパリ侵攻が迫るなか、太郎は最後の引揚船・白山丸で帰国の途に着いた。

「傷ましき腕」(1936/1949)

第2回 :若者たちの太陽

若者たちが岡本太郎にハマっている。書店には関連書籍が山積みされ、太郎語録がベストセラーを続ける。「瞬間、瞬間に生きる」「危険な道に賭けよ」「法隆寺 は焼けてけっこう」「誤解される人の姿は美しい」……。太郎の発する過激な言葉に衝撃を受けた若者がミュージアムへ。そこで生の太郎作品と出合い再びノッ クアウトされるのだ。
川崎市岡本太郎美術館は入館者の8割が30代以下、20代が6割を占める。太郎の気配がいまも残る青山の岡本太郎記念館にも連日多くの若者が訪れ、目を輝 かせて帰っていく。「エネルギーをもらいました」「一歩前に踏み出せそうな気がします」「壁にぶつかったらまた来ます」……。玄関のスケッチブックには彼 らが残した言葉が並ぶ。
先が見えず閉塞感に包まれた時代。太郎は自分を覆う分厚い雲を切り裂いてくれる存在なのだ。太郎と向き合うことで一筋の光がさしてくる。希望と勇気が湧いてくる。きっとそう感じているのだろう。行き過ぎて宗教になるのは困るが、若者たちの気分がわからないではない。
もちろん彼らはリアルタイムの太郎を知らない。この点においてはルノワールやマチスと同じだ。だが両者では認識する回路が決定的に違う。教科書で学ぶ芸術 家は「歴史上の偉人」つまりは「過去の人」であって、“これからの自分”とは関係がない。だが太郎は「未来に向かって伴走してほしい相手」であり、ともに 生きるいわば“ライブな存在”なのだ。
いま太郎の生き方や美意識、すなわち「岡本太郎という存在」そのものに対する共感の輪が広がっている。理由は単純で、言葉に嘘や計算がないからだ。有言実行だから説得力が違う。
太郎は強烈な作品と過激な言葉で世間を挑発し、それをそのまま自分の人生で実践した。“岡本太郎”を生涯貫き通した。岡本太郎のような日本人は過去にいなかったし、これからも現れないであろうことを若者たちはわかっているのだ。

東京・南青山の岡本太郎記念館

第1回 :『明日の神話』~太郎復活のモニュメント

いま東京都現代美術館に前代未聞の作品が展示されている。岡本太郎が『太陽の塔』と同時期にメキシコで完成させながら長らく行方不明になっていた幻の大壁 画『明日の神話』である。4年前にメキシコシティ郊外で発見されたときには崩壊寸前の状態だった。その後日本への移送と修復を目指したプロジェクトが発 足。一昨年春に神戸に到着し、1年に及ぶ修復作業を経て昨年夏に東京・汐留で初公開された。わずか50日の会期に200万人が詰めかけ、会場を異様な熱気 に包んだこの壁画がいま再び公開されているのである。
描かれているのは原爆が炸裂する悲劇の瞬間だ。中央には核に焼かれて燃え上がる骸骨。巨大画面を圧して広がる鮮烈な炎。強烈な原色の世界だ。だがこれは惨 めなだけの被害者の絵ではない。残酷で凶悪な力と同じだけのエネルギーをもって人間の誇りもまた炸裂する。その瞬間に『明日の神話』が生まれるのだ。そう 考えた太郎の美意識が凝縮されている。だから作品全体が気高く、美しい。しかも幅30m,高さ5.5mというサイズはもはや「絵画鑑賞」ではない。まさに “浴びる”感覚で、太郎のメッセージが全身に降り注ぐ。前に立つだけで元気が湧き上がってくる。
だが驚くべきはスケールやモチーフだけではない。国を跨いだ壁画の再生という一大プロジェクトのすべてが、作家の死後の出来事なのだ。はじめは発見者でも ある太郎のパートナー・岡本敏子の“思い”だけだった。それがいつしか多くの人を巻き込みながら一種のムーブメントとなり、その大きなうねりがこの難事業 を牽引していった。プロジェクトの応援団「太郎の船団」には日本を代表するクリエイターら100人が集結、浄財を寄付した者も万の単位に上る。無数の人々 が壁画の再生を願い、その一端を担いたいと考えた。この壁画を必要としたのは作家ではなく我々なのだ。
いま時代が太郎を求めている。太郎の復活は偶然ではない。時代の要請なのである。

『明日の神話』(1969/2006)