1952年、岡本太郎はモザイクタイルで『ダンス』を制作します。一点ものの油彩とちがってタイルなら何枚でもつくれるし屋外にも置ける。そうすれば芸術がもっと社会に入っていける。そう考えたのです。まさしくそれは岡本太郎の芸術思想を体現するものでした。
岡本太郎を失ってひとりになったとき、ぼくたちの心配をよそに、岡本敏子は気丈でした。太郎を次の時代に伝えるのが私の仕事。そう言って、すぐさま行動を開始します。
私にとって岡本太郎という人間は、まやかしとでも思い込みたくなるくらいに納得のいかない孤高の存在だ。太郎は生涯自らの手で作品を売らなかった。社会を拒むという行為自体が太郎にとって全力で社会へ干渉するとい う行為でもあった。
1959年11月、岡本太郎は返還前の沖縄にはじめて降り立ちます。久しぶりの骨休め。筆記用具を肌身離さずもち歩いていた敏子が、このときばかりはノートももたずに出かけました。ところが到着した途端にバカンス気分は吹っ飛びます。
1951年11月、岡本太郎は“生涯の友”との運命の出会いを果たします。戦後日本での活動再開から5年、上野の東京国立博物館でぐうぜん目にした縄文土器でした。
この世界一の大屋根を生かしてやろう。そう思いながら、壮大な水平線構想の模型を見ていると、どうしてもこいつをボカン!と打ち破りたい衝動がむらむら湧きおこる。優雅におさまっている大屋根の平面に、ベラボーなものを対決させる。
岡本太郎は『樹』に大いなる共感をもっていました。天にのびゆくその姿に生命力のダイナミズムを見ていたからです。若々しくひろがっていくさまに人間のあるべき姿を重ね、人が天と交流する回路であるとも考えていました。
《生命の樹》は全体がひとつの“生命体”なんだ。太陽の塔を構想したとき、岡本太郎はその胎内に“生命体”を内蔵させようと考えました。
岡本太郎は生涯にわたっておびただしい数の著作や文章を残した。太郎ほど言葉に情熱を傾けた芸術家はほかにちょっといないだろう。伝統、文化、縄文、沖縄、メキシコ、スキー、男女の機微…。
顔は宇宙だ。眼は存在が宇宙と合体する穴だ。岡本太郎は静物や富士山を描きませんでした。描いたのは〝いのち〟です。だから多くの作品には顔があります。