1952年、岡本太郎はモザイクタイルで『ダンス』を制作します。一点ものの油彩とちがってタイルなら何枚でもつくれるし屋外にも置ける。そうすれば芸術がもっと社会に入っていける。そう考えたのです。まさしくそれは岡本太郎の芸術思想を体現するものでした。
こわい顔、無邪気な顔、悲しい顔、みんな岡本太郎だ。画家はよく自画像を描くが、岡本太郎には自画像はない。
赤ちゃんがふくふくした手をのばして、何かを掴もうとしているところ。信じ難いほど小さな足に、重そうな頭をのっけて、危っかしくよちよちと 歩く姿。小犬でも猫でも、ライオンや象、ひよこ、幼い子はみんな凄い。
顔の中心 ── 眼。眼を描けば顔になる。岡本太郎の作品 というと、大きな 眼玉を思い 浮べる人が多いだろう。「 森の掟 」の赤い猛獣のギョロ眼、「 暴 走 」もそうだ。
人間でもない。動物でもない。不思議な世界としか言いようのない生きものたち。不思議な“いのち”が、見たことのない妙な生きものであるだけに、なまなましく、こちらに迫ってくる。
「遊ぶ字」という画集がある。全部文字だが、まるで絵のよう。"楽"という字は、にこにこして、いかにも楽しそうだし、"絵"という字は、本当に絵筆を とって絵を描いている人間に見える。
壁画、モニュメント、公共の場所に岡本太郎が作ったパブリックアートは数知れない。彼はこう言っていた。「ああいうものは、誰も一銭もお金を払わないで、 自分のものみたいな顔をして、良いの悪いのと言っていいんだぞ。
岡本太郎のピエタ───意外に思われるかもしれない。十字架からおろされ、息絶えたキリストを抱く嘆きの聖母。ヨーロッパでは描き尽くされた画題だ。
幼い日、私は 東京の青山6丁目で生れ、育った。あの頃、日本中に舗装した道などというものはなかった。だから いつでも土の肌と 匂いと、そして目の前に舞いあがり、飛びかうさまざまの虫がいた。
太郎のエロティスムは、甘い、ムード的な愛ではない。のけぞる女、激しく迫る男。その男自身も引き裂かれている。緊張、痛苦なしに歓びはない。そう言っているようだ。