岡本敏子の想い

岡本太郎は生きている・・・

1998年5月7日。岡本太郎が42年にわたって住まい、作品をつくりつづけた南青山のアトリエが「岡本太郎記念館」として公開されました。建築家・坂倉準三の手による旧館はそのままに、隣接する木造2階建ての書斎/彫刻アトリエを新築の展示棟に建て替えて、財団法人の運営する公的なミュージアムになったのです。太郎没後からわずか2年。エンジンは、「岡本太郎を次の時代に伝えたい」と願う岡本敏子の情熱でした。

岡本太郎の墓碑は敏子が迷わず決めた《若い夢》(多磨霊園で)

 

 

ここ青山のアトリエは岡本太郎が1954年から1996年まで、42年間、制作の場として、また芸術運動の根拠地として、目ざましい活動を展開した戦闘基地である。生前から彼の望んだ遺志のとおりに、いま岡本太郎を記念する現代芸術の推進拠点として生まれかわった。1996年1月7日、彼はここで歿した。亡くなる寸前まで、大モニュメントの制作や原稿の口述を続け、創造の意欲は衰えることがなかった。このアトリエで、「太陽の塔」をはじめ、数えきれないほどの、幅ひろいジャンルにわたる作品を生み出し、世に挑み続けたのだ。彼の息吹が、足音が、激しく語りかける声が、ほとばしる汗までが、この空間のあらゆるところに生きて響いている。

 

岡本太郎のなま身は去った。しかしこの場に、彼のパワーはみちみちている。芸術に関心のある人、ない人も、ここに来て岡本太郎のエネルギーにふれ、元気になってほしい。ここに集う人々の情熱が、岡本太郎記念館を活気づけ、小さいけれど凄い起爆力を持った発信基地になることを、彼は望んでいるに違いない。あの熱烈で純粋な、男らしい魂と、みなが直接語りあえる場が出来たことは、50年間、彼と一緒に走り続けて来た私個人にとっても、何にもかえ難い喜びだ。彼が生きていたらこうやっただろうと思う、そのとおりに、この記念館は活動して行きたい。岡本太郎を核として、集まる人同士がスパークしあい、お互いを見出し、くっきりさせ、より深く、よりひろく自分自身になる、そういうひらかれた場でありたい。岡本太郎の果たさなかった夢に向かって、第一歩を踏み出す今、彼の生き方、芸術にお心を寄せられたすべての方々のご協力をお願いしたい。

(左)みんなで太郎と遊ぼう(右)記念館の庭で《乙女》と