岡本太郎年表
1911 明治44年 |
2月26日 漫画家の岡本一平、歌人・小説家の岡本かの子の長男として、母・かの子の実家、大貫家のある神奈川県橘樹郡高津村二子(現・川崎市高津区二子)に生まれる。 |
1917 大正6年 6歳 |
4月 青山の青南小学校に入学するが、1学期で退学。 日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、小伝馬町の十思小学校と転校を繰り返す。 |
1918 大正7年 7歳 |
4月 慶應義塾幼稚舎に入学、寄宿舎に入る。 |
1925 大正14年 14歳 |
野口冨士男ら同級生と謄写版の同人誌を発行。春のボートレース対抗試合に負けた悔しさを表現した水彩《敗惨の歎き》を制作。 |
1929 昭和4年 18歳 |
3月 慶應義塾普通部を卒業し、4月、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。 12月 父・一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行し、一家で箱根丸にて神戸港を出港。 |
1930 昭和5年 19歳 |
1月 マルセイユを経由してパリ着。両親は取材のためロンドンに向かい、太郎はパリに残る。この頃、ルーヴル美術館でセザンヌの作品を見る。 7月 夏休みをロンドンの両親のもとで過ごす。 |
1931 昭和6年 20歳 |
3月 パリ郊外セーヌ県ショワジー・ル・ロワ(Choisy le Roi)のリセで学ぶ。 |
1932 昭和7年 21歳 |
1月 帰国する両親をパリ北駅で見送る。 夏頃 ポール・ローザンベール画廊にてパブロ・ピカソ《水差しと果物鉢》(1931年)を見る。 10月 パリ大学文学部哲学科でヴィクトル・バシュのヘーゲル美学の講義を聴講する。 同 第5回サロン・デ・シュランデパンダン展(Salon des surinde´pendant)に出品。以後、数年にわたり出品する。『ラントランシジャン(L’Intransigeant)』紙上の展覧会評で岡本太郎の名前が紹介される。 |
1933 昭和8年 22歳 |
― アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)協会に最年少で参加、協会主催の展覧会に出品する。 |
1934 昭和9年 23歳 |
― 《空間》シリーズを制作。 |
1935 昭和10年 24歳 |
7月 ジュンヌ・ユーロップ画廊でクルト・セリグマン、ジェラール・ヴュリアミとグループ展を開催。 ― セリグマンと「ネオ・コンクレティスム(新具体主義)」を提唱する。 |
1936 昭和11年 25歳 |
1月 グラン・ゾーギュスタン街にある屋根裏部屋で行われた反スターリン集会「コントル・アタック」にマックス・エルンスト、パトリック・ワルドベルグとともに参加。ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受ける。 10月 サロン・デ・シュランデンパンダン展に《傷ましき腕》を出品。作品を見たアンドレ・ブルトンから国際シュルレアリスム展への出品を勧められる。 ― アプストラクシオン・クレアシオンを退会する。 |
1937 昭和12年 26歳 |
6月 G.L.M.社より初めての画集『OKAMOTO』(ピエール・クルチオン序文)が刊行される。 ― パリ万博跡地にミュゼ・ド・ロム(人間博物館)が開館。パリ大学の学生として同館で行われていたマルセル・モース教授の下で民族学を学ぶ。 |
1938 昭和13年 27歳 |
1月 国際シュルレアリスム・パリ展に《傷ましき腕》を出品。 7月 ジョルジュ・バタイユの推薦を受け秘密結社「アセファル(無頭人)」に参加する。 12月 第1回巴里日本美術家展(ベルネーム・ジュヌ画廊)に出品。 |
1939 昭和14年 28歳 |
2月 18日母・岡本かの子没(享年49) |
1940 昭和15年 29歳 |
2月 《夜》が表紙を飾った岡本かの子『生々流転』(改造社)が発行される。 6月 ドイツ軍によるフランス侵攻により、マルセイユからの最後の帰国船・白山丸にて帰国の途につく。 |
1941 昭和16年 30歳 |
9月 第28回二科会に滞欧作品《傷ましき腕》《コントルポアン》など4点を出品し、二科賞を受賞する。 11月 岡本太郎滞欧作品展(銀座三越)を開催。横光利一、藤田嗣治、岡鹿之助らがパンフレットに寄稿。 12月 『母の手紙』(婦女界社)を刊行。 |
1942 昭和17年 31歳 |
1月 応召し現役初年兵として中国戦線に出征。 |
1946 昭和21年 35歳 |
6月 約半年間の中国・長安付近での俘虜生活を経て復員。戦火により青山の自宅にあった全ての作品を焼失したことを知る。 父・一平の疎開先である岐阜県加茂郡古井町下古井に行き、一平と再会。 母・かの子の実家、大貫家で暮らす。この頃、鎌倉の川端康成宅にも居候をする。 11月頃 世田谷・上野毛にアトリエを構える。 |
1947 昭和22年 36歳 |
1月 二科会会員に推挙される。 9月 第32回二科展に《夜》《憂愁》を出品。 |
1948 昭和23年 37歳 |
1月 花田清輝らと「夜の会」を結成し、前衛美術運動を始める。埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らが参加。 2月 第1回モダンアート展(主催・日本アヴァンギャルド美術家クラブ)に《真昼の顔》《憂愁》など出品。 9月 「アヴァンギャルド芸術研究会」を花田清輝とともに結成。池田龍雄、勅使河原宏、山口勝弘、福島秀子、北代省三、瀬木慎一、平野敏子らが参加。 同 第33回二科展に《夜明け》等を出品。 10月 11日父・岡本一平没(享年62)。一平のデススケッチを描く 11月 『岡本太郎画文集 アヴァンギャルド』(月曜書房)を刊行。自らの芸術理念の核として「対極主義」を提唱する。 |
1949 昭和24年 38歳 |
2月 第1回日本アンデパンダン展(主催・読売新聞社)に《赤い兎》を出品。 5月 夜の会編『新しい芸術の探求』(月曜書房)を刊行。 9月 第34回二科展に《重工業》を出品。 |
1950 昭和25年 39歳 |
1月 現代美術自選代表作十五人展(主催・読売新聞社)に、前年に再制作した《傷ましき腕》《露店》を出品。 2月 第2回日本アンデパンダン展(主催・読売新聞社)に《堕天使》を出品。開会日に食堂で「対極主義宣言」を読み上げ、「対極主義美術協会」の結成を呼びかけるも、賛同を得られず。 9月 第35回二科展に《森の掟》を出品。 |
1951 昭和26年 40歳 |
11月 戦後に制作した作品を集め、戦後初の個展岡本太郎展(日本橋三越)を開催。 同 東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受ける。 |
1952 昭和27年 41歳 |
2月 縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』に発表。 同 第4回日本アンデパンダン展(主催・読売新聞社)にモザイクタイル作品《太陽の神話》を出品。 4月 日本橋・髙島屋地下通路にモザイクタイル壁画《創生》を制作。 伊奈製陶常滑本社にて《創生》とともに陶作品《顔》を制作。 5月 パリのサロン・ド・メ展に《夜明け》を出品。 10月 大阪・髙島屋にて渡欧記念岡本太郎展を開催。 11月 翌年5月まで、ヨーロッパを再訪。マックス・エルンスト、ジャン・アルプらと再会する。 |
1953 昭和28年 42歳 |
1月 パリ・クルーズ画廊にて個展を開催。当時パリにいた海藤日出男、菅井汲、今井俊満、田渕安一らの助力を得て展示。オープニングにオシップ・ザッキ ン、ソニア・ドローネー、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・ラゴン、アンリ・ミショー、フィリップ・スーポーらが来訪する。 4月 南フランス・ヴァロリスのピカソのアトリエを訪ね、ピカソと会う。 7月 日本のアヴァンギャルド芸術家約30人と滝口修造、植村鷹千代ら批評家が国際アートクラブ日本本部を結成。代表に選出される。 9月 ニューヨーク・ヒューゴ画廊にて個展を開催。ワシントンDCに巡回。 10月 日本橋・髙島屋のショーウィンドウ8面のディスプレイを担当。 同 6日東京国立博物館表慶館で開催されたルオー展の会場で解説をおこなう。これを日本テレビが生中継で放映、初めてテレビに出演する。 12月 第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に日本代表の一人として《クリマ》等を出品。 同 『青春ピカソ』(新潮社)を刊行。 |
1954 昭和29年 43歳 |
5月 坂倉準三設計のアトリエ(現・岡本太郎記念館)が青山に完成、現代芸術研究所を設立。 6月 第27回ヴェネチア・ビエンナーレに、坂本繁二郎とともに日本代表として出品。 8月 『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』(光文社)を刊行、ベストセラーになる。 9月 画集『T.OKAMOTO』(美術出版社)日本語版・フランス語版を刊行。 10月 父・一平の七回忌法要をおこなう。多磨霊園に墓碑として陶作品《顔》を設置。 |
1955 昭和30年 44歳 |
4月 淡交社主催「実験茶会」の亭主としてアトリエで茶会を催す。客に丹下健三、北大路魯山人ら。 5月 第3回日本国際美術展に《燃える人》を出品。 8月 ヘリコプターで東京・銀座の夜空に光で絵を描く。 9月 第40回二科展に《瞬間》を出品。太郎が声をかけた内外の若手作家を集めた第9室が「太郎部屋」と呼ばれ注目を集める。 同 大映のSF映画「宇宙人東京に現わる」(監督・島耕二)の宇宙人等のデザイン、色彩指導を行なう。 12月 現代芸術の会第1回例会が開かれる。出席者は岡本のほか、丹下健三、亀倉雄策、柳宗理ら。以降57年3月まで毎月例会がもたれ、花田清輝、安部公房、丹下健三ら様々なジャンルの講師を迎え、芸術家志望の若者ら多数が参加。 |
1956 昭和31年 45歳 |
8月 築地・松竹セントラル劇場にモザイクタイル壁画《青春》を制作。 9月 縄文土器論を収録した『日本の伝統』(光文社)を出版。 同 東京・大手町の大和証券ビルに陶板レリーフ壁画《踊り》を制作。 同 丹下健三設計の旧東京都庁舎に《日の壁》等7面の陶板レリーフを制作。 11月 国際アートクラブが企画した世界・今日の美術展(主催・朝日新聞社)にジョルジュ・マチウ、サム・フランシス、ジャン・フォートリエらアンフォルメルの作家を多数紹介する。 |
1957 昭和32年 46歳 |
4月 『藝術新潮』に「芸術風土記」を連載。日本各地を精力的に取材する。 7月 第11回ミラノ・トリエンナーレに陶板壁画《陽》を出品。 8月 ミシェル・タピエからジョルジュ・マチウを紹介される。マチウの公開制作のためにアトリエの庭を提供する。アンフォルメルがブームとなる。 |
1958 昭和33年 47歳 |
4月 国鉄(現・JR)神田駅に《花ひらく》等、3面のクラッシュタイル壁画を制作。 5月 第3回現代日本美術展に《ドラマ》を出品。 9月 『日本再発見―芸術風土記』(新潮社)を出版。 |
1959 昭和34年 48歳 |
4月 東京都庁舎の壁画がフランスの雑誌『今日の建築』第1回国際建築絵画大賞を受賞する。 5月 『画文集 黒い太陽』(美術出版社)を出版。 8月 武智鉄二演出の野外オペラ「ローエングリン」(東京国立競技場)の美術を担当。 9月 第44回二科展に彫刻《動物》を出品する。 11月 沖縄を旅行し「御嶽」に感動する。 12月 長野県・戸倉上山田ヘルスセンターのスポーツランドに高さ約4メートルの彫刻《動物》を制作。 |
1960 昭和35年 49歳 |
3月 『中央公論』に「沖縄文化論」を連載する。 7月 東京・銀座松屋中央ホールに空間造形《真夏の夢》を制作。 |
1961 昭和36年 50歳 |
1月 『忘れられた日本<沖縄文化論>』(中央公論社)を出版。11月、毎日出版文化賞を受賞する。 4月 草津・白根山でスキー中に骨折。ギプスをはめられた足に着想を得て、彫刻《あし》を制作。 6月 東宝劇団歌舞伎旗揚げ興行「寿二人三番叟」(東京宝塚劇場)の美術を担当。 8月 二科会を脱会する。 10月 銀座・東京画廊にて岡本太郎展を開催。 |
1962 昭和37年 51歳 |
1月 カルピス食品工業相模原工場に、モザイクタイル壁画《初恋》を制作。 2月 高野山を取材。以後63年にかけて各地の信仰、祭りなどを取材し雑誌に紀行文を発表。 5月 第5回現代日本美術展(主催・毎日新聞社)に《若い闘争》《秘教》を出品する。 11月 川崎市高津区・多摩川河畔に岡本かの子文学碑《誇り》を制作。 同 東京・池袋駅前広場にクリスマスツリーとして高さ12メートルの《メリーポール》を制作。 |
1963 昭和38年 52歳 |
2月 フランス、アメリカ、イタリア、メキシコを旅行する。 7月 アントニン・レーモンドの依頼によりD氏邸(東京・渋谷)に彫刻と壁画による浴室を制作。 11月 《坐ることを拒否する椅子》を制作。 12月 東京・池袋駅前広場に、東京オリンピックを記念したモニュメント《ヴィクトリー・ポール》を制作。 |
1964 昭和39年 53歳 |
1月 岡本太郎展(第1会場/池袋・西武百貨店、第2会場/銀座・東京画廊)を開催。第1会場の会場構成は磯崎新が担当。名古屋、川崎、仙台、福岡、千葉、大阪を巡回。 7月 丹下健三設計による国立代々木競技場第一体育館に《競う》など8面の陶板レリーフを制作。 8月 東京オリンピック参加記念メダルを制作。 9月 『神秘日本』(中央公論社)を出版。 11月 韓国を取材。 |
1965 昭和40年 54歳 |
1月 『週刊朝日』に「岡本太郎の眼」を連載。 8月 鐘と炎展(銀座・東京画廊)を開催。 10月 名古屋・久国寺に梵鐘《歓喜》を制作。 |
1966 昭和41年 55歳 |
1月 香港、マカオを取材旅行。 7月 伊豆・日通伊豆富士見ランドに《太陽の鐘》等を制作。 12月 銀座・数寄屋橋公園に《若い時計台》を制作。 同 沖縄を再訪し、イザイホーの神事を取材。 |
1967 昭和42年 56歳 |
5月 山形県・寒河江市庁舎中央ホールに光る彫刻《生誕》を制作。 7月 日本万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。 同 テレビ映画「岡本太郎の探る中南米大陸」撮影のため中南米を旅行。 8月 メキシコの実業家から建設中のホテルの壁画制作を依頼される。 12月 万国博テーマ館の基本構想とスケッチが新聞各紙に発表される。 |
1968 昭和43年 57歳 |
1月 万国博への国際協力要請のため、パリ、プラハ、ロンドンを歴訪。グルノーブル・オリンピックを視察。 2月 メキシコのホテル、オテル・デ・メヒコの大壁画《明日の神話》制作のため、現地にアトリエを構える。 同 『原色の呪文』(文芸春秋)を出版。 3月 万国博テーマ展示の基本構想を発表。 6月 太郎爆発展(東京・銀座松屋)を開催。会場構成は粟津潔と原広司。 9月 建築設計を行った《マミ会館》(東京・大田区山王)が竣工。 同 画集『岡本太郎』(美術出版社)を出版。 |
1969 昭和44年 58歳 |
4月 愛知・犬山ラインパーク(現・日本モンキーパーク)に《若い太陽の塔》を制作。 8月 大分・別府駅前サンドラッグ・ビルの外壁に陶板レリーフ壁画《緑の太陽》を制作。 9月 メキシコにて《明日の神話》完成。 |
1970 昭和45年 59歳 |
1月 『藝術新潮』に「わが世界美術史」を1年間連載。 3月 万国博シンボルゾーン中央に《太陽の塔》《母の塔》《青春の塔》を含むテーマ館が完成。テーマ館館長に就任。 7月 パリにて個展La vie quotidienne a` Tokyo en 1970を開催。 10月 泉靖一との対談『日本列島文化論―日本人は爆発しなければならない』(大光社)を出版。 |
1971 昭和46年 60歳 |
7月 パリ、フォーブル・サントノーレ芸術祭「街の美術館」に《樹人》を出品。「祭りの王様」に選ばれる。 同 『美の呪力』(新潮社)を出版。 11月 名古屋・オリエンタル中村百貨店の正面外壁に《光る大壁画》を制作。 |
1972 昭和47年 61歳 |
3月 山陽新幹線開通にあわせ、新幹線岡山駅に陶板壁画《躍進》を制作。 同 ミュンヘン市・ハウス・デア・クンストで開催されたシュルレアリスム1922-1942展に《傷ましき腕》を出品。パリ装飾芸術美術館に巡回(5月まで)。 5月 ミュンヘン・オリンピック公式メダルを制作。 |
1973 昭和48年 62歳 |
7月 飛行船に絵を描く。 パリ、ポール・ヌムールより版画集『アプストラクシオン・クレアシオン―アール・ノンフィギュラティーフ 1932-36』が刊行される。アルプ、カンディンスキー、モンドリアンらとともに代表作家30名に選ばれる。 |
1974 昭和49年 63歳 |
3月 東京・NHK放送センター・ロビーに《天に舞う》を制作。 8月 《TAROきもの》発売。 11月 パリ、ポール・ヌムールより、シルクスクリーン版画集『絶対的、そして無目的に』を刊行。 12月 長野県・野沢温泉に《シュナイダー記念碑》を制作。諏訪大社近くの「万治の石仏」に出会い、絶賛する。 |
1975 昭和50年 64歳 |
1月 《太陽の塔》の永久保存が決定される。 3月 東京・晴海で開催された店舗システム・ショーに岡本太郎そっくりの人形(七彩工芸製作)が出品され話題となる。 7月 パリ大学民族学教授ジャン・ルーシュによるドキュメンタリー映画「岡本太郎-マルセル・モースの肖像」が、イタリア・アゾロ映画祭で伝記映画賞を受賞。 10月 パリ国際センターに《風》《いこい》など5枚のレリーフ壁画を制作。 |
1976 昭和51年 65歳 |
1月 『美の呪力』の仏訳がパリ、セゲール社より出版される。 同 TARO展―挑み・燃え・ひらく岡本太郎(日本橋・髙島屋)を開催。パリ市立ガリエラ美術館に巡回する。 3月 《顔のグラス》を制作。 4月 ガリエラ美術館での展覧会を記念して、フランスにおいて版画集『De´chirure』、画集『TARO OKAMOTO Le baladin des antipodes』(「対極の中の遊び」)が出版される。 11月 スペインを取材、翌年1月に『報知新聞』に紀行文を連載。 |
1977 昭和52年 66歳 |
1月 ティーセット《夢の鳥》が発売される。 7月 スペイン国立版画院に日本人としてはじめて銅版画《石と樹》等が収蔵される。 12月 ベルギーで制作した創作デザインのトランプが発売される。 同 『岡本太郎の挑戦するスキー』(講談社)を出版。 |
1978 昭和53年 67歳 |
9月 パリ、マジョルカ島、バルセロナを取材。 10月 福山市・日本はきもの博物館中庭に《足あと広場》を制作。 |
1979 昭和54年 68歳 |
2月 札幌雪まつり30周年を記念するシンボル大雪像《雪の女神》を制作。 9月 『岡本太郎著作集』(全9巻、講談社)を刊行。 10月 現代の神話ー岡本太郎の世界展(西宮市大谷記念美術館)を開催。 同 作品集『岡本太郎』(平凡社)を出版。 |
1980 昭和55年 69歳 |
2月 挑む岡本太郎展(新宿・小田急グランドギャラリー)を開催。これを記念して新宿駅西口広場で、絵画文字《挑む》の公開制作を行う。 3月 鯉のぼり《TARO鯉》が発売される。 4月 諏訪の御柱祭を取材する。 |
1981 昭和56年 70歳 |
6月 テレビセミナー「マイコン時代」(TBS)に出演、はじめてコンピューターで絵を描く。 7月 岡本太郎展(山梨県立美術館)を開催。 11月 画集『遊ぶ字』(日本芸術出版社)を刊行。 ― 「日立マクセルビデオカセット」のコマーシャルに出演。「芸術は爆発だ!」の言葉が流行語となる。 |
1982 昭和57年 71歳 |
3月 島根県・松江市総合運動公園に島根くにびき国体のシンボル《神話》を制作。 7月 青森県・古牧温泉渋沢公園に《かっぱ神像》を制作。 同 『美の世界旅行』(新潮社)を出版。 12月 相模原市・西門買物公園通りに《呼ぶ 赤い手・青い手》を制作。 同 テレホンカード《遊ぶ字》シリーズが日本電信電話公社(現・NTT)より発売される。 |
1983 昭和58年 72歳 |
2月 山形県の観光スキー映画「山形は白い国、岡本太郎のスキー」に出演。 6月 徳島県・大塚製薬徳島研究所に高さ22メートルの陶板壁画《いのち踊る》を制作。 8月 オリジナルデザインの振袖・帯などが発売される。 |
1984 昭和59年 73歳 |
4月 フランス香水フェアのシンボル《香りの塔》をラフォーレ原宿前に制作。 10月 栃木県・鹿沼市民文化センターに《夢の樹》を制作。 |
1985 昭和60年 74歳 |
3月 国際科学技術博覧会のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。 11月 青山・こどもの城にシンボル《こどもの樹》を制作。 12月 再構成・日本の前衛美術 1945-65展(イギリス・オックスフォード近代美術館)に《重工業》《森の掟》を出品。 |
1986 昭和61年 75歳 |
5月 岡本太郎の世界展(名古屋・名鉄百貨店)を開催。大阪、茨城県・笠間、新潟、仙台、金沢を巡回。 12月 前衛芸術の日本1910-1970展(パリ・ポンピドゥー・センター)に《傷ましき腕》《森の掟》を出品。 |
1987 昭和62年 76歳 |
3月 「さよなら国鉄・新生JR」の記念メダル《出発》を制作。 4月 NHKテレビドラマ「ばら色の人生」に俳優として出演。 |
1988 昭和63年 77歳 |
4月 ぎふ中部未来博にシンボルモニュメント《未来を拓く》を制作。 9月 ダスキンのフリーデザインマットのコマーシャルに出演。翌年、アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞する。 10月 船橋市・ふなばしアンデルセン公園に《平和を呼ぶ》を制作。 |
1990 平成2年 79歳 |
8月 岩手県・藤沢町の縄文野焼祭・縄文サミットに参加。シンボルとして《縄文人》を制作。 |
1991 平成3年 80歳 |
4月 青森県・奥入瀬渓流グランドホテルに暖炉彫刻《森の神話》を制作。 5月 東京都庁の新宿移転にともない、丸の内庁舎の取壊しが決定する。56年制作の陶板レリーフの保存運動がおこるが、9月に取り壊される。 12月 川崎市に主要作品を寄贈。翌年、岡本太郎美術館の建設計画が発表される。 |
1993 平成5年 82歳 |
4月 浦安市運動公園に《躍動の門》《五大陸》を制作。 9月 川崎市・入江崎総合スラッジセンターに陶板壁画《水火清風》を制作。 |
1994 平成6年 83歳 |
7月 世界祝祭博覧会にシンボルモニュメント《であい》を制作。 |
1995 平成7年 84歳 |
10月 岡本太郎展(大阪・髙島屋、広島市現代美術館を巡回)を開催。 |
1996 平成8年 |
1月 7日急性呼吸不全にて死去。 2月 草月会館草月プラザにてお別れ会「岡本太郎と語る広場」が開かれる。 4月 青森県・奥入瀬渓流第二グランドホテルに暖炉彫刻《河神》が完成。 7月 世界・炎の博覧会のシンボルモニュメント《花炎》が完成。 11月 財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団が設立される。同財団が「岡本太郎記念現代芸術大賞」を創設。 |
1998 平成10年 |
5月 東京・南青山に岡本太郎記念館が開館。 |
1999 平成11年 |
10月 川崎市・生田緑地に川崎市岡本太郎美術館が開館。 |
2003 平成15年 |
9月 メキシコシティ郊外に眠っていた《明日の神話》を岡本敏子が確認。 |
2004 平成16年 |
10月 「《明日の神話》再生プロジェクト」が始動する。 |
2005 平成17年 |
4月 メキシコにて《明日の神話》を解体梱包。日本への移送準備が整う。 岡本敏子急逝(享年79) 5月 《明日の神話》が日本に到着。 6月 青山・スパイラルホールにて、岡本敏子のお別れ会「岡本敏子と語る広場」が行われる。 7月 愛媛県・東温市の作業場に《明日の神話》が搬入され、修復作業がはじまる。 |
2006 平成18年 |
6月 《明日の神話》修復作業が完了する。 7月 東京・汐留、日本テレビゼロスタ広場で《明日の神話》が一般公開される。 11月 岡本太郎記念館にて、制作後所在不明だった《電撃》(1947年)が発見される。 |
2007 平成19年 |
3月 世田谷時代の岡本太郎1946-1954展(世田谷美術館)が開催される。 4月 青山時代の岡本太郎1954-1970展(川崎市岡本太郎美術館)が開催される。 同 《明日の神話》が特別公開(東京都現代美術館~翌年6月)される。 |
2008 平成20年 |
3月 《明日の神話》の恒久設置場所が東京・渋谷に決定する。 11月 《明日の神話》が渋谷駅連絡通路に設置される。 |
2011 平成23年 |
1月 1年間にわたる生誕100年事業がはじまる。 2月 六本木ヒルズでバースデーイベント「TARO100祭」が開催される。 同 NHKドラマ『TAROの塔』が四回にわたって放送される(~4月) 同 著作集「岡本太郎の宇宙」全5巻+別巻(ちくま学芸文庫)が刊行される。 3月 東京国立近代美術館にて「生誕100年岡本太郎展」が開催される。 4月 NHKドキュメンタリー『太郎と敏子』が放映される。 5月 沖縄県立博物館・美術館にて「岡本太郎と沖縄」展が開催される。 11月 表参道ヒルズにて映像際「Roll over TARO!」が開催される。 12月 太陽の塔へのプロジェクション・マッピングが行なわれる。 |