1952年、岡本太郎はモザイクタイルで『ダンス』を制作します。一点ものの油彩とちがってタイルなら何枚でもつくれるし屋外にも置ける。そうすれば芸術がもっと社会に入っていける。そう考えたのです。まさしくそれは岡本太郎の芸術思想を体現するものでした。
1998年 、岡本敏子は太郎と共に暮らし闘ったこの場所を岡本太郎記念館として開放しました。アトリエやサロンなど、太郎の気配が漂う空間をそのまま残す一方で、特別展示室では7年の間に30回もの企画展を送り出しました。
4月20日、前館長・岡本敏子が急逝しました。あまりに突然の、そしてみごとな、彼女らしい最期でした。『私は岡本太郎と共に五十年走ってきた。自分らしくとか、何が生き甲斐かなんて考えてるヒマはなかった。十分に、ギリギリに生きた。極限まで』
岡本太郎にこんな写実的な絵があることはほとんど知られていない。戦後のアバンギャルドとしての激烈な闘いの中では、こういう面は出す余地もなかったし、それに対する郷愁もなかったようだ。
私がホテル・デ・メヒコに描いた壁画は『明日の神話』と題する。画面の中央には骸骨が炎をふいて燃え上がっている絵である。
処女作には、その人のすべてがあるという。岡本太郎、22才の作『空間』。ほとんど処女作といっていいこの作品には、青春のリリカルな憂愁が凝縮されている。
対極は岡本太郎の芸術論であり、生き方そのものでもある。二つの極に引き裂かれてある。これは青春期の太郎のなまなましい実感であった。
予感は漠然として、形のないものだと思っている人が多いかもしれない。だが岡本太郎の予感には、明確な形がある。リリカルに彩られている。
岡本太郎の写真は、ただ眼に見える対象を写しとっているのではない。その現象の本質、深い存在感の根源を見透している。そして彼にはシャーマン的資質があった。
動物の眼は、なぜあんなに悲しいのだろう。強いけれど、邪気のない、きっと見るその眼は、岡本太郎 そっくりだ。